病院

IWGP立ち上げと世代交代 1983年には世界統一タイトルを目指しIWGPを立ち上げるが、同年6月2日に、自身の立ち上げた第1回IWGP優勝戦において、当時新鋭であったハルク・ホーガンにロープ越しのアックスボンバーを受けリングサイドに落ちた際に頭を打ち脳震盪を起こし、衝撃の失神完全KO負けを喫した(詳細についてはIWGPリーグ戦の項を参照)。 この際、ハルク・ホーガンは猪木を失神させてしまったことに大変動揺していた。北海道スキーツアー また、この頃より猪木自身が「アントンハイセル」など様々な事業に新日本プロレスの資金を投資したものの、その多くが失敗に終わって新日本プロレスの経営を圧迫することになり、これに嫌気がさした所属レスラーによる「クーデター」と、タイガーマスクや長州力の退団騒動がこの後に起こることになる。 1987年、不倫騒動で倍賞と離婚。そしてアントンハイセルへの借金。クーデターで最悪の精神状況の中、「リングで死ぬ。」 と言い、一番の敵であり、一番の仲間であったマサ斉藤と巌流島で観客なしのノーピープルマッチを敢行。2時間5分14秒の壮絶な闘いの末、 猪木が勝利した。 1988年8月8日の藤波とのIWGP戦は、「猪木負ければ引退か?」と憶測が飛び交った試合であるが、この一戦の前には長州力の不意打ちのラリアットをくらいピンフォール負けするなど、先行きが危ぶまれる中でIWGP挑戦者決定リーグ戦を何とか勝ち抜いてのものであった。「負けたら引退する」と宣言し、引退試合の実況を約束していた古舘伊知郎がテレビ朝日の演出により、急きょ実況する設定の中行われた試合は、結果60分時間切れの引き分け。猪木がIWGPに挑戦した最後の試合となった。ダイビング 1989年2月22日、両国国技館での長州力とのシングルマッチで完璧なピンフォール負けを喫した。猪木はセコンドに肩を担がれ涙を流しながらリングを後にした。 政界進出オーストラリア 留学 同年には「スポーツを通じて国際平和」の合言葉で、スポーツ平和党を結成。第15回参議院議員通常選挙にも比例区から99万3989票を集めて初当選(キャッチコピーは「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」、史上初のレスラー出身の国会議員となり、「今話題になっているリクルート問題に対して私はこの一言で片付けたい”逆十字固め”」、「国会の場でも俺にしかできない事をやる」と宣言した。なお、当時参院比例区は政党名の投票であったのに対し、自身の知名度の高さから猪木の個人名を書いた無効票が大量に出た(当時の参議院比例代表選挙は厳正拘束名簿式)。政治活動を続けながらもプロレス界からは引退せず、政治とプロレスの「二足のわらじ」で活動した。バリ島 1989年10月14日、福島県会津若松市で講演中に暴漢に刃物で襲われ左の頸部などを負傷すると、会場が一時騒然となる中、講演を中止する事無く、傷口をタオルで押さえたまま最後まで行った後、東京の病院に入院した。10月25日頭に包帯をし車椅子に乗った状態で、統一会派を組んだ民社党の配慮により、初めて質問に立った。 1990年12月1日、イラクにおいて「平和の祭典」を行うことを発表し、関係者や人質被害者41家族46人と共にトルコ経由でバグダッドへ入った。このイベントの開催後に、人質状態にあった在留日本人と全人質のが解放された。この勢いを元にその後行われた1992年7月第16回参議院議員通常選挙でも1議席を獲得(参議院会派で2議席目)した。ANAツアー 1994年1月4日、東京ドーム大会で全日本プロレス出身の天龍源一郎と初対戦し、一旦はチョークスリーパーで天龍を落とし失神させたが、最後は天龍にパワーボムで敗北した。なお、この試合は1年間テレビ中継されなかった。なお、天龍は勝利したにもかかわらず、会場では涙を流した猪木に対する猪木コールに圧倒され、「猪木さんに飲み込まれた。僕はまだまだだね。」と語った 落選高速バス 京都 1994年に、公設第1秘書(当時)であった佐藤久美子(当初は公設第2秘書であったが第1秘書の猪木快守が借金問題で秘書を解雇され昇格)およびスポーツ平和党前幹事長の新間寿らによる告発で「政治資金規正法違反の問題」「賄賂の問題」「右翼(日本皇民党)との癒着問題」「佐川急便会長の依頼で東京都知事降板問題」「税金未納問題」、「女性問題(カンボジアで13歳の少女買春)」などスキャンダルが発覚。TBSは、新間寿の記者会見を急遽生中継までして放送した。 政治資金規正法違反については、東京地検捜査中に時効となり、処分はまぬがれた。 税金未納問題については、世田谷区役所および国税から差し押さえ処分。(官報に記載)サイパン ダイビング この前後に、もう1人のスポーツ平和党所属の議員であった江本孟紀と党の運営を巡って対立。特に党運営に関わる金銭疑惑による猪木への不信感により、大きな亀裂が生じた。また釈明記者会見の際に、猪木が机を叩き記者を怒鳴るなどの高圧的な態度も強い批判を浴びた。また、佐川急便事件との関与も報じられた。高速バス 金沢 一連の「猪木スキャンダル」もあって、1995年の参議院選挙で落選。なお、同じ参院選挙では高田延彦が副党首を務めたさわやか新党も立候補したが、「スポーツ平和党」同様に議席を獲得出来なかった。選挙後、江本は離党した。 引退高速バス 激安 1994年5月1日に福岡ドームでグレート・ムタと対戦、フォール勝ちしたものの、この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まった(なお「ファイナルカウントダウン」と銘打ったが、「 3、2、1…」とカウントがダウンせずにアップしたことが話題を呼んだ)。グアム ダイビング 1998年4月4日に東京ドームで行われた引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」で、小川直也などと対戦し勝ち上がったドン・フライと引退試合で対戦、グランド・コブラで勝利し引退した。高速バス 大阪発 引退の際のスピーチ[1]は、いまだに盛んに春一番らがものまねの対象にしている。 引退後 引退後はUFO、PRIDE、INOKI BOM-BA-YEの盛り上げ役や、猪木完全プロデュースによる「ジャングルファイト(MMA/VT)」をブラジルで開催していく。なお、2002年8月28日に行われた「Dynamite!」では、上空4000メートル(夜間規制があったため発表は3000メートル)からのスカイダイビングに挑戦。このスカイダイビングに猪木は10億円の保険を懸けていた。91,107人(主催者発表)の観衆が待つ国立霞ヶ丘陸上競技場への着地に成功したが、その後「PRIDE」と絶縁。2003年12月31日に日本テレビ協賛で「イノキボンバイエ」を開催したが大失敗に終わり、格闘技プロデュースからは退いた。バリ情報 2005年11月14日に自身の持つ新日本プロレスの株式(全株式の51.5%相当)を株式会社ユークスに売却し、事実上新日本プロレスの経営から身を引いた。以降は自身が提唱したバングラデシュ興行が中止になる等、同団体への影響力は全盛時ほどは無くなりつつある。 IGF設立高速バス 格安 2006年4月にはアメリカの新興総合格闘技団体IFLの世界大使に就任し、同年9月には、IFL参戦のため東京サーベルズを結成し監督に就任する。同9月には自らが企画し、モハメド・アリの娘や猪木の娘(サイモン猪木の妻)などが参戦を表明した格闘技イベント「INOKI GENOME ?格闘技世界一決定戦?」の開催延期を発表するなど、試行錯誤を繰り返していたが、2007年3月、新団体「イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)」を発足させ、自身が社長となると共に6月に旗揚げ戦を行った。なお、同時期に娘婿であるサイモン・ケリー猪木も新日本プロレス社長を辞職、IGFへ合流した。沖縄 ダイビング また、2007年7月11日、交友のあるTRIPLE-Pと“TRIPLE-P vs. アントニオ猪木”を組み、アントニオ猪木の名言「道」を曲にして発売した。道のCDジャケットの裏側はアントニオ猪木の手書きの「道」が書かれているプロモーションビデオにも出演しDJプレイしたりサンプラーを叩いたりする。バリ 2007年12月20日の有明コロシアムの小川直也対安田忠夫戦の試合終了後、レフェリーの制止をも聞き入れず暴れまわる小川直也を止めるため乱入し、裸絞めで小川を失神させた。 プロレス 主な戦績 1960年9月30日、デビュー戦で大木金太郎(金一=キム・イル)に逆腕固め負け。 1966年11月19日、ジョニー・バレンタインと対戦し、勝利。US王座獲得。 1967年10月31日、ジャイアント馬場と組み、ビル・ワット、ターザン・タイラー組に勝利。インターナショナル王座獲得。高速バス 大阪 1969年12月2日、NWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニアに挑戦、ノーフォールのまま60分時間切れ引き分けとなる。高速バス 京都 1971年3月2日、ジョン・トロス戦に勝利。UNヘビー級王座を獲得。 1972年10月4日、カール・ゴッチと対戦、勝利世界ヘビー級王座を獲得。 1973年10月13日、坂口征二と組み、カール・ゴッチ、ルー・テーズ組と90分3本勝負で対戦、2-1で勝利。